ロックフィッシャー佐藤文紀

ロックフィッシャー
佐藤文紀
(さとうふみのり)
元祖・根魚ハンターとして、数々のIGFA世界記録及びJGFA日本記録を有し、「根魚釣りの専門家」として東北〜北海道を拠点に全国各地の根魚を追い続ける。
又、フラットフィッシュや大型トラウトの釣りにも造詣が深い。
2011年、自らがプロデュースするブランド、PRO’S ONEを立ち上げた。

キャッチアンドリリースのお願い

豊かな自然とグッドコンディションの魚を守るため、必要以上のキープは慎み、又、産卵前の個体やこれから大きく成長していく若魚は、ぜひともリリースを心掛けましょう。
釣り場環境への負担を最小限に抑えることで、次世代に渡り末永く楽しめることを願って―。

6年前の時を想う、2017年の3月11日。

夜明けを待つ被災地。

ここは6年前の東日本大震災において、最多の死傷者を出した宮城県石巻市―。

 

旧北上川が太平洋と出会うその河口。

ちょうどその中洲に掛かる海から数えて二番目の橋を、一週間前の夜明け前に出向いてシャッターを切った。

ここは海から押し寄せた巨大津波で多くの人が亡くなった惨劇の場。

私自身そのような悲しみの場所を積極的にカメラを持って歩くことには複雑な感情を抱くことから正直申し上げると抵抗を感じる人間なのですが、6年目を迎えるにあたり、また新しい一歩を踏み出すキッカケが作れればと思い夜明けぬ暗闇の中、一人向かったのです。

今回はその写真は載せませんので、皆さんの頭の中で、心の中で、私が撮った一枚の写真をイメージしてみてください。

本日は写真なし、本文だけの綴りですが、なによりも「6年前に思いを馳せる日」です。

お時間あるときにでも以下、文を目で追ってみてください。

 

 

人口の流失、企業の倒産が相次ぐ東北地方太平洋沿岸部。

福島、宮城、岩手とこの3県においてはとりわけ失われた人命と経済の損失は今も大きな爪痕を残す。

その規模を考えれば、もはや人知を超えた出来事であり、いかに強大なものであっても何か一つの力で再生どうこうなるものではない。

巨大地震に大津波、原発の爆発事故と3つの要素が複雑に絡み合った大災害。

近代日本の災害としては、戦後最大の被害規模といっても差し支えないものであろう。

 

 

夜7時を過ぎたJR石巻駅前から続く旧市役所通りまでの道。

その街並みに人の影はほぼなく、依然静まり返る。

 

若者が減った街にその未来を写すことは極めて難しいものと思う。

これからの時代、震災被災地では軒並に地町村規模での人口の縮小、経済の縮小が懸念されている。

我が国に到来した少子高齢化社会の波も更なる追い討ちをかける。

 

実際のところ、私の周りの同世代の多くはこの街を去った。

普通に考えて、無理もないだろう。

残る住宅ローンや自動車ローン、勤め先は津波で被災し勤続が困難となった。

それでも残った家族を守らなければならない苦渋の決断で、被災地を去るゆえ代わりの方法がないのだ。

 

その一方で、留まった者は言う。

給与は上がらない、だけど経済の流れから物価だけはどんどん上がっていく。

田舎ゆえに娯楽も少なく、特に趣味があるわけでもない。

話を聞きまとめると、彼らが言わんとするのは小さい子供を持つ子育て世代には、今の東北地方は極めて過酷な環境、ということだ。

 

このような最中、人間どこに喜びを見出せるのか、その言葉に乗る30代、40代の中堅世代の悲痛は計り知れない。

 

自身にとってもそうだ。

昔からの旧友の多くはいなくなり、残った友人は今や数少ない。

現状を考えれば、一連の震災の影響を受けない遠路に今後を見出した方がこの先の人生を考えるうえでは賢明であるかもしれない、と彼ら同様にこの6年間、私とてそう考えてきた。

 

ここにいると、いつも震災が頭の中から離れないから精神衛生上も好ましいものではない。

これはある種のトラウマと言って差し支えない。

あの日、その後に見た光景は生涯忘れぬものであり、これからも少なからず背負っていってしまうだろうといろいろな意味での覚悟はしている。

苦しい反面、己の場合には「もう少しここで頑張ってみる。」という一心で、この被災地に留まってみた。

 

幸い出張も多い身ゆえ、訪れる異郷の地では一時的に6年前の悲劇から視点を解放することで行き詰まった胸中をうまくやり過ごす術を見出し、これまで精神衛生を保ってきた。

 

「余震活動は全体として徐々に低下傾向にある」としながらも、「今後も長期間にわたって規模の大きい余震が発生し、強い揺れや高い津波に見舞われる可能性がある」。

3月9日付のニュースで発表されていた政府の地震調査委員会のまとめの掲載だ。

ご覧になった方も多いことだろう。

 

 

宮城県には昨年11月にも大きな地震と津波が再び押し寄せたばかりである。

元々の人口が少ない東北地方。広大な土地に対して住んでいる人が少ないわけだから北国としては北海道に次いで自然は豊かな方だ。

田畑や海に起因する第一次産業が主体の土地柄だから、都会のように第二次産業、第三次産業の数は少ない。

あくまでその場所の恩恵がそのまま経済につながっている土地ということになる。

今の社会を見ればよく分かるものであるが、若者が少なく、高齢者が増え続け、若手が就労する仕事先も少ないゆえに新しく東北に移り住む永住者は今後も少ないと見積もられている。

ますます過疎化は進んでいってしまう可能性の方が高い。

東北6県含めても、その総人口はたかだか知れているから、未来の東北に課せられた命題は今もなお大変重い。

 

6年前、自分の命もかろうじて救われた日でもある。

生き残れた、たまたまの幸運に感謝し、あれ以来、社会のために・人のために何か少しでも役立てる人間でありたいな、と心に思うものでした。

決しておごらず、謙虚に人間生きていきたいな、と改めてそう思ったものです。

 

 

 

2017年3月11日の本日は、あれから6年―。

今もなお私の親戚の多くは行方不明のままです。

きっと海のどこかにいる、そんな縁のなつかしい顔に思い馳せながら、静かに過ごす日。

 

 

北海道から帰って来た昨晩は、以前釣り雑誌の企画で担当させていただいた「サカナサク、海の旅。」(地球丸/ソルトウォーター誌で掲載)という一年間に渡る東日本大震災被災地の海を釣り歩くという他に類を見ない連載の模様を一人思いふける夜を過ごしました。

 

津波が襲来した千葉県九十九里浜~青森県六ヶ所村に至るまで。

その中には福島県の東京電力第一原子力発電所の近郊を取材した記憶も含まれています。

大の大人が言うのもなんだが、正直言って怖かった。

自分一人では行けぬ場所にも同行して下さったカメラマンの存在はとても心強く、二人三脚で成し遂げたその一年の旅はその後の人生にとっても大きな糧になっています。

 

6年目の3月11日、あなた様はいかがお過ごしでしょうか。

 

これから迫る首都直下型地震や南海トラフ地震と、この国に来たる未来の巨大地震や大津波の脅威から100%安全に逃れることは難しい。

それは明日かもしれないし、30年先かもしれない。

こればかりは分からないから、どうにもならないものでありますが、私が生きている間には再びあの日のような光景を見たり、再び経験するかもしれない。

 

だけど、時間はとまらないから人は「今」を生きていくー。

 

 

 

あの日は強い揺れのあと、雪が舞う金曜日でした。

6年後を迎えた本日の土曜日、地震発生時刻のちょうど40分前頃でしょうか。

あの日よろしく今日もまた小雪が舞ったタイミングで、頭の中は6年前にタイムスリップするものでした。

川を遡る黒い渦と知ってかったる街並みが水没している光景は今日もこの目蓋に焼き付いている。

家族を思って4日後に駆けつけることが出来たその日にはまだ引かぬ海水の中を胸まで浸って水の中をこいで歩いた水の冷たさも忘れられるものではありません。

「こんなことが世の中で起きていいものか!」と怒りを覚え、恐怖におびえながら必死に暗い水の中を突き進んだあのときのことをー。

 

 

今、生きていること。

今、生かされていることに感謝し、また新しい一年を「少しでも前向きに生きて行けれたらいいなぁ」と思う、皆で迎える・皆が想う、特別な3月11日。

 

文末にあたり、一連の東日本大震災において亡くなられた多くの御霊と今も尚きびしい避難生活が続く皆様に哀悼とお見舞いの意を申し上げ本日の綴りとさせていただきます。